名言discovery ㉒ ~シモーヌ・ヴェイユ~
最も危険なのは、質より量へ逃避すること。
シモーヌ・ヴェイユ(1909年 – 1943年)
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同感です。
フランスの哲学者である シモーヌ・ヴェイユ が残したとされる言葉です。
ざっくり人物紹介
シモーヌ・ヴェイユは1909年、フランスのパリに生まれます。
両親は共にユダヤ系だったそうですが、完全な不可知論者だった為に、できるだけユダヤ的なものから遠ざけて育てられたそうです。
(不可知論:この場合、『神の存在は否定しないが、見たことないので知る由もない』という意見だと思います。)
1914年、第一次世界大戦が勃発。
医師だった父は軍医として招集され、各地を回ります。
そして家族も父の任地を追い転々とします。
戦争の為に教育も途切れ途切れだったそうですが、3歳上の兄、アンドレ・ヴェイユ(のちに20世紀を代表する数学者になります)が字を教えてくれたそうです。
そのおかげか、5歳の時には新聞を読んで父親を驚かせたとの事。
1918年、第一次世界大戦が終結。
しかし、軍医だった父親はすぐに除隊とはならず、しばらくは任地に留まります。
この時シモーヌは、敗戦国だったドイツに対するヴェルサイユ条約が過酷すぎると、9歳にして感じたようです。
その後、父の除隊が認められ、一家でパリに戻ります。
1919年、パリのフェヌロン高等中学に入学。
しかし、製図やデッサンなどの成績が悪く、優秀だった兄との比較にも悩み、1923年に退学してしまいます。
1925年、16歳で哲学のバカロレア(大学入学資格試験)に合格。
これにより、ソルボンヌ大学などフランスのどの大学にも入れる資格を得ます。
しかし、彼女はさらに上の高等師範学校を目指してアンリ4世高等中学の高等師範入学準備学級に入学。
ここで、アランことエミール=オーギュスト・シャルティエ(フランスの哲学者・評論家・モラリスト)に出会い、多大な影響を受けます。(アランはペンネームです)
シモーヌは猛勉強をして、1928年に高等師範学校の試験に合格。
1931年、22歳の時には、哲学のアグレガシオン(大学教授資格)試験に合格。
その後は、教師を続ける傍ら組合活動などをしていたそうです。
新聞や雑誌には、共産党やソ連、マルクス主義などへの批判の投稿をしていたとの事。
27歳の時にはスペイン内戦にも義勇軍として参加しているそうです。ただ、ここで炊事用の沸騰した油に足をつっこんでしまい、大やけどを負い離脱します。
スペインから帰国したシモーヌは、火傷などのため入院しますが、その間にも論文を書きつづけ投稿していたそうです。
1939年、第二次世界大戦が勃発。
シモーヌと両親はパリを脱出。その翌日にドイツ軍がパリに侵攻。
フランス政府はドイツとイタリアに降伏します。
シモーヌはおそらくマルセイユに避難したのだと思いますが、1942年に両親と共にアメリカへ、その4か月後には両親と離れロンドンに行ったとなっています。
1943年、昏睡に陥り、ロンドンの病院に入院。
4か月くらい入院した後、アシュフォード(イングランド、ケント州にある町)の療養所に移ります。
しかしその1週間後、34歳の時に死去します。
没後の1947年、友人だったギュスターブ・ティボンが、生前シモーヌから託された十数冊の雑記帳を編纂し、『重力と恩寵』と題して出版します。
この本は宗教・哲学分野としては異例のベストセラーとなったそうです。
(生い立ちや経歴などはWikipediaを参照しています。)
2度の世界大戦を経験している彼女とは重みが違うかもしれませんが、2000年以降の日本はとにかく安さを重視し、薄利多売を繰り返していた印象です。
石油やガス、さらには食料まで輸入に頼っている日本は、本来こんなに安く販売出来ないはず。
『質より量』は、不当廉売にもつながります。
2022年にはフィリピンの大使にも言われましたよね。
「バナナをもっと値上げしてほしい」と・・・
日本人が良くても、代わりに海外の人が苦しみます。
安さを実現するために、品質を落とす(不正を含む)か、働いている人を安い賃金でこき使うかのどちらかになります。
もちろん、資源の浪費やフードロスにもつながりますしね。何事もほどほどに。