名言discovery ⑳ ~本田宗一郎~
我々は、最初から苦しむ方向をとったから、あとは楽になった。
真似をして楽をしたものは、その後に苦しむことになる。
本田宗一郎(1906年 – 1991年)
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基礎が無いのに応用をしようとする人はそうなりがちですね。
実業家・技術者であり、本田技研工業の創業者である本田宗一郎さんが残したとされる言葉です。
ざっくり人物紹介
本田宗一郎さんは1906年、静岡県の磐田郡光明村(現在の浜松市天竜区)に生まれます。
1922年、二俣町立二俣尋常高等小学校(現・浜松市立二俣小学校)を卒業後に、東京市本郷区湯島(現・東京都文京区湯島)にある自動車修理工場「アート商会」(現在のアート金属工業)に入社します。
※入社と書きましたが、当時でいう丁稚奉公。(丁稚奉公については松下幸之助さんの回で少し説明しています。)
1928年、アート商会で6年間勤務した後、のれん分けというかたちで、浜松市にアート商会浜松支店を設立して独立。
1935年、小学校教員だった 磯部さち さんと結婚。
1937年、東海精機重工業株式会社(現・東海精機株式会社)の社長に就任。
この時、エンジンに欠かせない部品であるピストンリングに目をつけますが、学問的な壁に突き当たり、浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)機械科の聴講生となり、3年間を金属工学の研究に費やしたそうです。
1939年、アート商会浜松支店を従業員の川島末男に譲渡し、東海精機重工業の経営に専念します。
1945年、三河地震により東海精機重工業浜松工場が倒壊。
所有していた東海精機重工業の全株を豊田自動織機(現在のトヨタグループの源流)に売却して退社し、「人間休業」と称して1年間の休養に入ったとなっています。
1946年、浜松市に本田技術研究所を設立し、所長に就任。
1948年、本田技研工業株式会社(以下Honda)を浜松市に設立。代表取締役に就任します。
この頃に原動機付き自転車を考案して二輪車の研究を始めたそうです。(1946年に本田さんが製作したものが原動機付き自転車の第1号だそうです。)
1949年、のちにHondaの副社長となる藤沢武夫と出会い、Hondaを世界的な大企業に育て上げていく事になります。
1961年、前述の藤沢氏と共に、「作行会」という財団法人を設立。若手の研究者や学生に対して、匿名で奨学金を交付していたそうです。
1981年、勲一等瑞宝章を受章。
1989年、アメリカ合衆国の自動車殿堂入りを果たします。アジア人で初との事。
1991年、84歳の時に肝不全のため死去。
没後の2010年、生まれ故郷の浜松市天竜区に本田宗一郎ものづくり伝承館がオープン。
海外からの評価も高く、勲章関係は日本のみならず、イタリアやベルギー、スウェーデンなどでも受賞しています。
(生い立ちや経歴などはWikipediaを参照しています。)
本田さんは実業家として有名かもしれませんが、技術者でもあります。
ざっくり人物紹介でも触れていますが、専門的な知識の壁にぶつかり、すでに社長という立場ながら、三年の月日を高等教育機関での学び・研究に費やしています。
今の世の中では簡易的にいろんなモノが創れてしまいます。それはそれで良いと思うのですが、トラブルが起きた時に対処が出来なくなる可能性があります。
やはり基礎も重要なのではないかと、改めて思わされる言葉です。