名言discovery ㉖ ~ルキウス・アンナエウス・セネカ~
金で買った忠誠は金で打ち砕かれる。
ルキウス・アンナエウス・セネカ(紀元前1年頃 – 65年)
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およそ2000年も前の言葉です。お金には魅力も魔力もあるんでしょうね。
政治家・哲学者であり、作家でもあった ルキウス・アンナエウス・セネカ が残したとされる言葉です。
ざっくり人物紹介
ルキウス・アンナエウス・セネカは紀元前1年頃(推測)に、当時のローマ帝国・コルドバ(現在のスペイン・アンダルシア州コルドバ県)で生まれます。
父親の 「ルキウス- あるいはマルクス・アンナエウス・セネカ」 と区別するため、父親を大セネカ、息子を小セネカと呼んだりもするそうです。
※父親のプラエノーメン(英語でいうファーストネーム)が不明なため。ルキウス説もしくはマルクス説が有力なようです。
12~13歳の頃にローマへ移住したとの事。
新ピタゴラス派のソティオンやストア派のアッタロスらに師事し、哲学を学んだようです。
西暦20年頃、セネカは大病を患い、一時は自殺も考えたそうです。
その後小康状態に戻りますが、本格的な療養を兼ねて、25年頃にエジプトに渡ります。
エジプト・アレクサンドリアでは、ユダヤ人の古典や古代エジプト時代から受継がれる思想を学んだそうです。
31年、ローマへ戻りますが、33年ごろには政務官職であるクァエストル(財務官)に就任。
その後、元老院議員となり、政治家としての存在感を示していったそうです。
37年、当時の皇帝ティベリウスが死去。
ガイウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス(以後、カリグラと表記)がローマ皇帝に即位します。
カリグラは当初順調に統治していたようですが、徐々に残忍な性格になったそうです。
39年、ゲルマニア遠征の最中に、同行していた義理の兄に当たるマルクス・アエミリウス・レピドゥスを反逆を企てた罪で処刑し、2人の妹リウィッラとアグリッピナを追放刑としてしまいます。
セネカもカリグラに処刑されそうになったそうですが、有力者の仲裁により難を逃れたとなっています。
41年、カリグラが近衛隊によって殺害され、クラウディウスが皇帝に即位。
ローマを追放されていたリウィッラとアグリッピナの帰国が認められます。
カリグラに政界を追放されていたセネカですが、この2人の取り成しにより復帰を果たします。
しかし、クラウディウスの皇后であるメッサリナと、リウィッラが敵対関係に。
リウィッラは処刑され、セネカはコルシカ(現在のフランス領の島)へ追放刑となってしまいます。
48年、メッサリナがクラウディウスにより処刑され、49年頃にセネカはローマ政界へ復帰します。
その後セネカは、プラエトル(法務官)や補充コンスル(執政官)といった役職に就任。
54年、クラウディウスが毒キノコを食べてしまい、中毒死。
アグリッピナの子であるドミティウス(=皇帝ネロ)がローマ皇帝に即位します。
ネロが子供の頃、セネカは彼の家庭教師をしていたとの事。
しかし、ネロも段々と歪んでいき、母親であるアグリッピナを殺害、妻であるオクタウィアを死に追いやったそうです。
62年、セネカは政界を引退します。
その後、64年のローマ大火に関わった容疑をかけられますが、これは無実だったようです。
しかし、65年にネロを皇帝から退位させる陰謀計画の容疑をかけられてしまいます。
ネロは使いを送り、セネカを尋問しますが、曖昧な対応だったため、自殺を命じます。
同年4月、風呂場にて自殺。
なお、セネカは最期にこう語ったとされています。
「ネロの残忍な性格であれば、弟を殺し、母を殺し、妻を自殺に追い込めば、あとは師を殺害する以外に何も残っていない」
(生い立ちや経歴などはWikipediaを参照しています。)
セネカ関連作品
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冒頭でも触れた通り、2000年も前の言葉です。
当時からお金の影響力は絶大だったようですね。
私もお金は大好きですが、人間関係では極力使わないようにしています。
冷たい人間かもしれませんが、なるべくトラブルを避けたいので・・・