名言discovery ㉙ ~ココ・シャネル~
みんな、私の着ているものを見て笑ったわ。
でもそれが私の成功の鍵。
みんなと同じ格好をしなかったからよ。
ココ・シャネル(1883年 – 1971年)
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おそらく多くの日本人が苦手なもの、これが出来る人は強いですね。
フランスのファッションデザイナー、企業家である ココ・シャネル が残したとされる言葉です。
ざっくり人物紹介
ココ・シャネル(出生名:ガブリエル・シャネル)は1883年、フランスのメーヌ=エ=ロワール県ソーミュールで生まれます。
父親は行商人のアルベール・シャネル。
母親は洗濯婦のウジェニー・ジャンヌ・ドゥヴォル。
彼女が12歳の時、母親のジャンヌが死去。
その後、オーバジーヌにある聖母マリア聖心会が運営する孤児院に預けられたそうです。
18歳でその孤児院は出なければいけなかったらしく、その後はムーランのカトリック女子寄宿舎に預けられたとなっています。
オーバジーヌの孤児院にいた時に裁縫を学んでいたようで、仕立て屋で職を見つけます。
同時に副業として、騎兵将校の溜まり場となっていたキャバレーで歌を歌っていたそうです。
彼女が ココ(Coco)を名乗るようになったのはこの頃のようです。
芸能人としての成功を夢見て温泉リゾート地のヴィシーに行きますが、上手くはいかなかったとの事。
ヴィシーの行楽シーズンが終わるとムーランに戻ります。
そのヴィシーに行く前に、エティエンヌ・バルサンと出会います。彼は兵役後に両親の遺産を受け継ぎ、多大な資産を持っていたそうです。
シャネルは彼と生活を始め、優雅な暮らしが出来たようです。
この頃に馬・乗馬に興味を持ち、後のデザインに影響を与えたとの事。
1909年、バルサンの友人であるアーサー・カペルと関係を持ち始めます。
1918年にカペルが他の女性と結婚するまで、9年間ほど関係が続いたそうです。
シャネルは生涯未婚でしたが、後に「彼こそ私が愛した ただ一人の男」と語ったとされています。
1909年、彼女の最初の店舗がパリにオープン。
1910年、婦人用帽子職人のライセンスを取得し、パリのカンボン通り21番地にブティック「シャネル・モード(Chanel Modes)」を開店。
シャネルが作った帽子を舞台女優のガブリエル・ドルジアが作品でかぶった事により、キャリアに花が咲く事になります。
1913年、リゾート地のドーヴィルにブティックを開業。
1915年、ビアリッツにも店舗をオープン。
1921年、初の香水「シャネルの5番(CHANEL N°5)」が発売。大ヒット商品に。
「CHANEL」は世界有数のファッションブランドとして成功を収めます。
1939年、第二次世界大戦が始まりますが、シャネルはドイツの諜報活動に関与していたとなっています。
1944年9月にはパリのホテル・リッツで逮捕されていますが、数時間で解放されたとの事。イギリス首相であったチャーチルが掛け合ってくれたようです。
その後、スイスへと亡命。10年くらい住んでいたようです。
ファッション業界からも退いていましたが、70歳を過ぎた頃に復帰。パリに戻ります。
年月がかなり経っていたため、シャネルのデザインは地元フランスで酷評されたそうですが、アメリカでは「ライフ」誌で特集されるなど人気が出たようです。
以降、シャネルはファッション業界の第一線に君臨します。
1971年1月、87歳の時に、居住していたホテル・リッツで死去。
お墓は亡命先だったスイス・ローザンヌにあります。
(生い立ちや経歴などはWikipediaを参照しています。)
ココ・シャネル関連作品
冒頭でも触れていますが、みんなと違う格好するというのは日本人は苦手ですよね。
結構勇気がいると思います。
ただ、今はSNSの特性で、人と違う方がバズりやすいような気もします。
シャネルが生きていた時代とは比べ物にならない程、自由な発信が出来ます。
ファッションに限らず、自分の好きな事を素直に楽しんでいると、良い出来事が起きるかも?