名言discovery ⑫ ~松下幸之助~
何としても二階に上がりたい、どうしても二階に上がろう。
この熱意がハシゴを思いつかせ、階段を作りあげる。
上がっても上がらなくてもと考えている人の頭からは、ハシゴは生まれない。
松下幸之助(1894年 – 1989年)
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流石ですね。
日本が誇る実業家・発明家であり、松下電器(現パナソニック)の創業者である松下幸之助さんが残したとされる言葉です。
ざっくり人物紹介
松下幸之助さんは、1894年に和歌山県海草郡和佐村(現・和歌山市)に生まれます。
父親が事業に失敗した後、小学校を4年で中退、9歳の時に火鉢店に丁稚奉公に出されたとなっています。
(丁稚は商家などに住まわせてもらう代わりに、雑用や肉体労働などをする立場の子供を指すようです。基本的に無給で、現在はこのような制度は廃止されています。)
その後、奉公先を自転車店に変えたそうですが、そこでサントリーの創業者・鳥井信治郎と出会い、経営の師としていたそうです。
16歳で大阪電灯(現:関西電力)に入社。
在職中に電球ソケットを考案していたとの事。
1913年、18歳の時に関西商工学校夜間部予科に入学。
1917年、大阪電灯を退職。
独立後、妻(松下むめの)とその弟(井植歳男:後に三洋電機を創業)、さらに友人2人と電球ソケットの製造・販売をしていたそうです。
その後、紆余曲折あったようですが、1918年に大阪市北区(現在は福島区)に松下電気器具製作所を創業します。
創業当初のヒット商品はアタッチメントプラグや二股ソケットだそうです。
以後、自転車用電池ランプや乾電池など事業を拡げていきます。
1927年、ナショナル(NATIONAL)の商標を使用開始。
1929年、松下電器製作所へ改称。
1935年、松下電器産業株式会社として法人化。この時に本社を大阪府門真村(現:門真市)に移転しているようです。
その後、戦時中には軍需品の生産もしていたとの事。その為か、戦後にGHQから制限会社に指定され、戦争協力者として公職追放処分を受けたそうです。(処分は後に解除されています。)
1946年、出版社であるPHP研究所を創設。
1957年、日本初の系列電器店、ナショナルショップ(現:パナソニックショップ)を作ります。
1970年、松下電器商学院(現:松下幸之助商学院)を設立。ナショナルショップの後継者育成を目的にしていたそうです。
同年、大阪万博に松下電器館を出展。「5000年後に開封する」としたタイムカプセルが話題になったとの事。
1989年、94歳の時に気管支肺炎のため死去。
生まれ故郷の和歌山市、本社のある門真市で名誉市民に、さらには奈良県の明日香村でも名誉村民になっているとの事。
国からも勲一等旭日桐花大綬章などの勲章・褒章を複数授与されています。
数々の功績を残し、「経営の神様」とも呼ばれています。
著書も多く、「道をひらく」は特に有名です。
(生い立ちや経歴などはWikipediaを参照しています。)
ものづくりに長けている人は、困っているからこそ今までに無かったモノを作りあげてきたんだと思います。
その点、モノが溢れている現在ではなかなかこういった視点は持てないですよね。
どちらかというと、バズらせる為のものづくりが主流になってしまった気がします。
もちろん、地球温暖化や少子化の対策などで頑張ってる人はいるのですが・・・